劣等感から完全に解放される方法Ⅲ

2011年04月08日


前回に引き続き劣等感の解決法を書いて参ります。
前回劣等感が罪であるからこそ劣等感は私達のうちから消え去ると書きました。

では劣等感は罪と具体的にはどおつながるでしょうか。
今日は前回よりも少し深く見ていきましょう。

それにはまず聖書での罪というものを知らなくてはいけません。
聖書での罪の最たるものは、人が神様から離れ、生きている状態を当たり前としている事です。
そして神様から私達が離れている結果起こる事が、自分の価値を見失う事であったり、自己中心に生きる結果につながります。
劣等感は神様の作品である自分にケチを付けるものです。
神が良いといったものに対して「良くない出来」ということは罪です。
また、人に対しても同じです。
優越感を持ち、他の人を蔑むなら同じく神様の作品にケチを付けている訳です。
他にも劣等感は妬みをうみますし、嫉妬もします。
これらを神様はやはり罪だと言われます。

これは前回も少し書かせていただきました。

今日はこの劣等感が罪とつながる最も強い理由をお話いたします。
それは劣等感が引き起こすある行動にあります。

ヤコブの手紙4章17節
4:17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

劣等感が引き起こす最悪の事態とは、成すべきことをなせなくなるという事態です。
劣等感のある人は、自分の足りなさだけをみて、神様が「あなたには出来るからこれをしなさい」といっても、私には出来ませんと逆らって神様に従わないということをよく致します。
現に昔の私がそうでした。

聖書とはなんでしょうか?
聖書が歴史を通して私達に教えていることは従順と不従順の結果です。
私達人間にとって一番幸せになる事は何をすることでしょうか?
自分勝手に生き、その結果、本当の自分の価値を見失う事でしょうか?
違います。
それは私達を私達自身以上に愛し、私達の最善、最幸を知っている神様に従う事です。
従う結果は、私達が何があっても動じない自分への確固たる自分への価値観を持つからです。

劣等感がなぜ罪となるのか、それは結果として不従順という最悪な罪を産むからです。

モーセを見てみましょう。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。
3:17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』
3:18 彼らはあなたの声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。
3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。
3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。
3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。
3:22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」
4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」
4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4:4 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」
4:6 主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。
4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。
4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」
4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。
4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

この箇所を読むとき皆さんは何を思いますか?
この場面はモーセという人がエジプトにいたころ、自分の力で奴隷となっていたイスラエルの民を率いようと高慢になっていた時、事が思うようには運ばず、ミディアンというの地に逃げていった後、神様がモーセを今度は本当に奴隷解放のリーダーとして立てた時のお話です。

この時のモーセはエジプトから逃げた時の自分で何でも出来る!!という自信家では無くなっていました。それどころか、人間的に言ったらとても同一人物とは思えない程しょぼい人になっていました。
なぜモーセはこれほど自分の無力さを感じるようになっていたのでしょうか?
人が自分の自身を失うとき、必ずその背後には他人との比較があります。

この時モーセがなぜこんなにショボクなっているのか。
それは自分の小ささに気付き、劣等感から無力感を持つようになっていたからです。

先ほども書きましたが、彼は奴隷解放計画を失敗させました。
その失敗の挫折感から彼は自分とある人達を比べて行くようになり、40年間それを繰り返して行きました。

それは3章6節を読むと分かってきます。
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

当時のモーセは神様を知る上で当然過去の信仰の父達の話を知っていました。
モーセ五書・・・はモーセが書いたものです。

彼はこれを書くほどにイスラエル民族の歴史を知り、神様に従順に従い大事を成した信仰の先人達を嫌というほど知り尽くしていました。


モーセはエジプトから逃げたときの失敗した自分と、神様の御業を行って来た先人たちと
比べなした。
また荒野で普通に羊を飼うだけの平凡なちっぽけな自分を見て自信喪失し、強烈な劣等意識を持つに至っていました。


現にモーセは4章13節でこの様に言っています。
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

この時モーセは自分がとても神様の働きを出来ないと、そして他に偉大な適任者がいるはずだからその人にお願いしてくださいと言いました。

かなりしょぼいことを言い続けましたが、結局このしょぼいモーセを作っているのは過去の偉大な先人たちへの劣等感からくる無力感でした。

そして14節。神様は怒られました。

4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。

神様が怒ったのは何度もモーセが断ったからでしょうか?
確かにそれもあります。
しかし神様の怒りが燃えた一番の理由はモーセが劣等意識から神様の「モーセ」という作品に文句を付け、しかもその結果不従順になっていたからです

劣等感というものが不従順という罪を作り出すものであることをこの箇所は非常によく現しています。

しかし劣等感が罪であるからこそ、神様によって完全に消し去っていただけるものである事がここから先の記事で分かっていきます。
ここからモーセははっきりと変わりました。


神様がモーセに「お前はわたしの尊い作品なんだから、わたしがやれといった事は必ず出きるんだから、誰とも比べることをせず自信を行きなさい」という愛の思いをものすごい言葉で語られています。

4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

神様は「自分なんか」という意識に囚われていたモーセに向かってどれほど尊いと語って下さったかというと、
「あなたはアロンに対して神の代わりとなる」と言われました。
神の代わりになる。

これほどの人のありのままの存在を肯定してくれる言葉はありません。
この瞬間、つまり、モーセが本当に神様の愛を受け取った瞬間、彼の内にある劣等感は消え失せました。

残ったのは自分には出来ないけれど神には出来るという素晴らしい謙遜だけを残した、無限の可能性を秘めたモーセでした。

この後皆さんも御存知のごとく彼は歴史上最大の300万人以上とも言われる民族の大移動の指導者となり正にモーセを通して行われた神業によってその働きを果たしました。

ここから今日私たちはよく学びたいと思います。
モーセの劣等意識は神様の怒りを燃え上がらせる罪でした。

神様の愛を受け取ったときそれは一瞬で消え失せました。
ここには世でいう人と比べて出来るから自分にも出来るといった、人と比べたことによる解決は全く当てはまりませんでした。

彼は神様の愛によってその劣等感を無くしていただくことが出来、しかも謙遜まで手にしていました。
神様がモーセに現した愛「人と比べて何かできるからあなたが尊いわけではなく、その存在自体が神様の目から見て神の代わりに遣わす程に高価で尊いんだよ」という事を教えたからでした。

そして今の時代、神様はもっと私達に分かりやすく私達に「あなたは高価で尊いんだよ」「必要なんだよ」と語ってくださっています。
私達が受け取っているイザヤ43章4節。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

という言葉には「人をあなたの代わりにし」とありますが、神様は今私達にこの御言葉をイエス・キリストによって実行して下さいました。

イエス・キリストは私達人類の身代わりとなって十字架にかかりましたが、もし、人類があなた一人しかいなくても同じように十字架にかかりました。

それは私達の一人の存在がイエス・キリスト、すなわち神様と等しい価値のあるもの、モーセに例えて言うなら神の代わりとなり、この地上で働きをなすものと言われるほどに尊い、神の代わりとなるほどの尊いものとされたということです。

イエス・キリストの十字架での犠牲を通すことによって、モーセに神様が語って下さった「あなたを神の代わりとする」という御心は更に強くなって今の私達に向けられています。

イエス・キリストがわたし一人の為に身代わりとなって十字架にかかって下さったんだ、それ程に自分は尊いんだ!!という神様の愛を受け取るとき、私達からは人と比べるときに出来てしまうようなちっぽけな劣等感は完全に消え去ります。

イエスキリストの愛がそれほどに大きいからです。

自分ではどうしようもない劣等感かもしれません。
少なくとも私は自分の力では克服できませんでした。
優越感によってなんとか自分を保つような生き方をしてきた者でした。
しかし今私は、その劣等感から完全に解放されました。
それは私が人よりも劣っていようが、

しかし神様の愛を受け取る時、私達に残るのは優越感なんかではなく、本当に自分の存在を喜べる、自由です。

ヨハネ8章31・32節
31「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」


今日神様の愛を受け取ることによって自分ではどうすることも出来なかった劣等感を私達の心から完全に消しさり、本当の意味で自由になりましょう!!


  

Posted by 於義丸 at 13:08Comments(0)TrackBack(0)

劣等感から完全に解放される方法Ⅱ

2011年04月06日

またも大分期間が開いてしまいまして申し訳ありません(^^;)
前回は優越感を得ることで劣等感を克服する事は本当に劣等感を克服する事ではなく、ごまかしであり錯角でしかない事を書きました。
本当に劣等感を克服するにはどおすればいのか、それを書いてまいります。
世界の№1ベストセラーであるキリスト教の「聖書」に書かれている言葉を見てみる事にしましょう。

御言葉。
ヨハネ8章31・32節
31「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

ここに書かれているように、世の中の真理とされているものとは違い、本当の真理は私達を縛る物ではなく、自由にするものだと書かれています。

優越感によって劣等感を克服したと錯覚することが、劣等感を克服する方法であるとするのが世の中の真理、世の中で正しいとされていることです。
勿論そのことに気づかないうちにみんなその方法をとっているわけですが。

しかし先ほども言ったように優越感によって劣等感を克服しようとする事は、結局人の評価に自分を縛りつける、自分を本当の意味で自由にするものではない、縛る真理。
偽物の真理だということを今日知ってください。


では自分を本当に自由にする本物の真理とはなんでしょうか?
それは、自分のありのまま、あるがままの姿をゆったりと受け止める自由を持つことが出来るようになる。
これが自由をもたらす本当の真理です。


では、優越感によって解決する方法ではない方法で本当に私達を劣等感から自由にする真理とはどんな方法でしょうか?


それを知っていくためにまず劣等感がなぜ始まるかを見てまいりましょう。

それは人と比べるからです。

「自分は自分」と本当に言えるなら素晴らしい人を見れば「素晴らしい」と言えるようになります。
しかし現実は人と比べてつい「私なんて・・・」となったり「私だって」と背伸びしたり、あるいは自分の存在感を守るために「人をけなしたり」と、劣等感からいろいろな間違った心を持つようになります。

人の良い所を良いとして褒め、弱さは弱さとして受け止めることが出来るなら人間関係は良い物になっていきます。
そのためにはどおすればいいでしょうか?

答えは簡単で、人と比べるのをヤメればいいんです。
神様は人を世界にたった一人しかいないユニークな存在として御造りになりました。
ですから、一人一人が自分らしく生きることが出来る筈ですし、何よりそおすることが大切です。

自分は一人しかいないユニークな大切な人間なんだという、この価値観を自分のものにする為には次のことを知ることが必要です。

それは、聖書が言っている罪と劣等感と福音の関係を知ることです。
Ⅰヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます


罪という言葉を聞くと悪い響きがあります。
この私達にとってあまり響きの良くない罪が何故今日の主題の劣等感の解決とかかわりがあるのでしょうか?
それは劣等感は神様が慈しみ愛され創られた私達「自分」という作品にたいして「不満・ケチ」を付ける事になるからです
神様は私達に「あなたは効果で尊い、わたしはあなたを愛している」と私達人間を誰も例外なく最高傑作の作品であると聖書で人間に語りかけています。
ですから、私達が「私なんて」と劣等感に捕らわれる時、それは私達が「私達自身」という神様の作品にケチつける罪となるのです。

しかし、この劣等感が、罪であることがはっきりと分かったとき、先ほど書いた聖書の言葉が力を発揮いたします。

この御言葉が私達に教えてくれるのは、もし今問題になっていることが(今日で言うなら劣等感)が罪が原因ならば、福音によって清められていく、変えられていく事が出来るという事実です。

例えば、皆さん癌が体に見つかったとします。
しかし検査の結果早期発見で確実に治ると言われたら喜びますよね?
本来病気なのに喜ぶのって変じゃないですか。
でも治るものだと分かると良かったーと思う訳です。

罪も同じことが言えます。聖書はそれかが罪ならば許され清められると言ってくれています。
つまり、劣等感という傷も罪ならばきよめられる、完治するといわれたわけです。
今日知ってください。
劣等感は完治するものなのです。

劣等感を克服する方法は世の中でいくつも言われています。
しかし人格に根深く根を張った劣等感というものは自分の力では取りきる事が出来ない代物である事は捕らわれている方が一番良く分かっていることではないでしょうか?
次回はこの劣等感と罪の関係について更に深く見ることで完璧な劣等感の解決を実例を挙げて書いて参りたいと思います。

  

Posted by 於義丸 at 16:28Comments(0)TrackBack(0)

劣等感から完全に解放される方法。

2011年03月26日


久々に我が家の愛猫おぎ丸の写真をアップしました。
記事とは全く関係ありませんが読んでくださったら心から感謝です。face01

皆さんは劣等感を実際に持ったことがあるでしょうか?

劣等感を持つとき一番悲しい事は、本当の人間関係が築いていけない事です。

劣等感を持つ人は自分の本当の価値に気付けない為、人の評価が自分の価値を決める様になり、結果として人の前にありのままの自分を出せなくなるからです。

時には劣等感はそれをバネにする人にとって努力する為のエネルギーになることもあります。
そんな時、成功した人はそのことを「私はそれをバネにして今の所まで登った」とよく自分を誇りとしています。
一見素晴らしいことに見えます。

しかし実はこおいった人の劣等感がその人から消えているかというとそうではありません。
築いた地位や、努力した事で他人に認められる事にによって劣等感ではなく、優越感を持ち、劣等感が消えたように錯覚をしているだけにすぎません。

そしてこの優越感によって劣等感を克服することが世の中では劣等感に対しての唯一の対抗手段のようになっているのも事実です。

しかし、人と比べる事で得る自信、優越感は何かあればすぐに崩れ去って、また劣等感を持つようになるものです。

結局、優越感で劣等感を消すやり方は根本的な治療、解決には全くなりません。

では自分ではどおする事も出来ないこの劣等感はどおすれば自分の中から消し去る事ができるのでしょうか?
明日はそのような自分ではどおすることも出来ない劣等感から本当に解放されていく道があることをお話いたします。
  

Posted by 於義丸 at 16:01Comments(0)TrackBack(0)

こんな時だから知りたい事がある。(続く)

2011年03月24日

前回投稿した記事に次の投稿でイエス・キリストの具体的な愛について書かせて頂くことにしていましたの
続きを書いて参ります。
イエス・キリストの罪人に対する具体的な愛はここから始まります。

そして罪人は言いました
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」


彼の人生ではじめてで最後の祈りでした。
たった一度の祈りでした。しかもとても控えめなモノでした。

彼の祈りは「一緒に連れて行って下さいではなく、思い出してください。」だった。
彼はし刑囚だったわけですから、自分が地獄に行くことを知っていました。
自分が地獄にいるとき、もしイエス様がその御国で思い出してくれれば少しでも慰めになると思っていました。

たった一度の一瞬の祈り、しかも自分はし刑になる程の犯罪者。
彼は自分が救われるなんてこれっぽちも思えませんでした。

しかし絶望の中にいる彼に対してイエス様が言った言葉は非常に思いがけない意外なものでした。

23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

この時の罪人の心の変化はどれほどのものだったか、書かれていませんが、喜びそのものだったでしょう。
どれほどの罪も心からイエス様を信じるならたった一度の告白で赦される事をこの箇所は表しています。
しかしこの箇所が示しているのはそれだけではありません。

イエス様は朝の9時から午後3時までの間十字架にかかり苦しみ続けました。
6時間、苦痛に満ち、祈りながら実は何をしていたのか?
それは創世記のアダムとエバ以来全人類が犯してきた、それこそ数えきれない人の罪の精算をしていたわけです。
そのためにこの長い苦しみの時間が必要でした。

この歴史上始まって以来最も大切で偉大な働きの最中、イエス様はたった一人の罪人の為に時間をおさきになりました。

ここから、私たちは神様の愛を改めて知ることが出来ます。
十字架でのイエス様の犠牲は全人類の為のものでありますが、実際には私達一人の為だということです。

以前私はたしかに私の為にしんで下さった事は信じるけど、全人類のためでしょ?
自分だけのためではないのにどおしてその愛から自信なんて持てるのかな?と思ったことがありました。
人間は人と自分を比べて自信を失ったり、自信を持ったりするからです。

そんなときある方が「イエス様の十字架はたしかに全人類のためだったけど、もし全人類があなた一人しかいなくてもイエス様は同じように十字架にかかったんだよ」と言われていました。

この罪人の話を見てもそれが分かります。
イエス様は大切な事を人に教える時「まことに」と言って特に熱意を持って弟子たちを教えました。


ここで罪人に語る時もイエス様はその、「まことに」を使いました。
鞭打ち、拷問、十字架にかけられた時打ちつけられた釘の傷、それらの出血多量の中で、意識は朦朧として、喉もからからになり、そんな中でも全人類の初めから終わりまでのすべての罪の精算をしている人生で最も大切で重いお働きをしている最中に、やっつけ仕事ではなく、本気で全情熱を持って、「まことに」と言って、罪人に告げました。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

本来答えなくたってよかったんです。かれは天国へどおせ行けるわけですから。

でもこの罪人の肉体のしぬまでの少しの時間の絶望をイエス様は哀れんだわけです。

貴重な時間の中、全人類の執り成しの祈りの中、イエス様は彼にパラダイスに行けることを自分の持てる全情熱を持って伝えました。

私達と神様の関係は正に一対一の愛の関係です。


さあ、このように言われた罪人はどお思ったでしょう。

ここでイエス様が言われた「あなたはきょう、わたしと共にいます」の「きょうは」はどんな一日だったでしょうか?


それは正に十字架にかけられるという、朝から人生で最も最悪の絶望のきょうだったわけです。

彼にとっては十字架を背負って歩くその道は正に地獄への道そのものでした。


しかしその絶望していた彼にイエス様はなんと言ったでしょうか。
その最悪だった「きょう」という言葉を使ってパラダイスになったと言って下さった訳です。

そしてここで私達がしっかり覚えていなくてはならないことがあります。

それはこの「きょう」というのは全ての人、誰にでも必ず来る日だということです。
形は違います。老衰、事故、がん、心筋梗塞、脳溢血、し刑・・・・しにいろいろな形があります。
しかし、心筋梗塞であれ老衰であれ、し刑であれ、形はどうであれこの「きょう」はおなじです。

人がしを恐れるにはいくつか理由があります。
一つ目は100%起こる問題であるということです。
100%起こる問題というのは私達の人生にはし以外は無いと言えます。
失恋、会社が倒産、離婚、がん、火事・・・・・どれも100%ではありません。
しかしこの「きょう」は100%必ずくる、逃げようの無いものです。


二つ目はこの「きょう」は必ず一人で迎えることになるということです。

どれだけ愛しあっていてもここでの「きょう」は一緒に迎える事はできません。
必ず一人だということです。
どれだけ熱い恋愛結婚をしても最後の瞬間というのは必ず一人です。

だから私たちはしをおそれます。


しかしそんな私達にイエス様は言いました。
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

イエス様を私達の救い主として信じるなら私たちは決して一人でこの「きょう」を迎えることはありません。
イエス様と共にいることが出来ます。

また、100%来るし、しんだらどこへいくのかわからないといった恐れも、パラダイス、天国、希望への道に変わります。


この罪人はどうだったでしょうか?
彼の「きょう」は最悪の一日でした。しかしそんな「きょう」もイエス様に出逢った瞬間から最幸の「きょう」に変わりました。

今日書かせて頂きましたように、罪人のし刑の「きょう」は例外なくお一人お一人に訪れます。
しかし同時に、イエス様と出会うなら、最悪から最幸になったこの出来事も今、皆さんに起こってきます。

必ず訪れるしという「きょう」を最幸のきょうに変えませんか?
この罪人の場合、肉体がしぬまでの残された人生は時間的には、ほんの少しの間でした。

今の私達はこの罪人ほど、時間的にはしには近くはありません。
しかし知ってください。

この罪人は本来、死までの短い残りの人生も、これまた最悪の時間を過ごすはずでした。

しかしパラダイスに行けると分かった瞬間から、すでに最幸の人生に入りました。

人生の本当の最後が最悪であるしに向かう人生ではなく、天国への、希望に向かう人生はイエス・キリストを知らない人には想像もつかないくらい本当に最幸の平安な人生です。
みなさんどおです?
どんなに嬉しいことがあってもその後に最悪の事があったら気分はいかがですか?
逆に嫌な事があってもその後に最幸が待っていたら嫌なことも嬉しく乗り越えられるでしょう?
終わりよければすべて良しとは言いませんが、やはり終わりこそ最幸にしていきたいですね。


どうぞ今日、皆さんの人生をパラダイスに向かう人生へと変えて下さい。
終わりの良い人生は、すべてが希望に満たされていきます。

今日あなたに向けられている言葉。
「今日あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」という言葉を受け取って、人生の終りにこそ、希望を持つ本当の意味で希望に満ちた人生はじめて下さい。
  

Posted by 於義丸 at 17:48Comments(0)TrackBack(0)

こんな今だからこそ知りたい事がある。

2011年03月17日

約二年ぶりにブログ致しました。

これからはできる限り更新します。

地震の影響からほとんど無傷だった名古屋でもスーパーからお茶や水が消えました。
神戸の地震のときもこんな事があったな、と改めて今回の地震の規模や被害の大きさを思わされました。

ニュースの中には見つかっていない家族の生存が絶望的といった方の心痛む映像から、離れ離れになっていた家族が再会する感動的な場面も流れていました。


生きている私達にとって「死」は正に未知そのものです。

ほとんどの人が自分自身もいつかは100パーセント死に直面する事を知りながら、死というものと自分は関係が無いように生きています。

それ程に、直面するまで、死とは人にとってあまりに未知で、遠いものだといえるのではないでしょうか。

そんな私達も今回の様な未曾有の大災害で多くの方の命が失われるとき、死が決して自分や身近の人に関係の無いものでは無い事を嫌でもリアルに感じる機会となります。


私達人間はサルや他の動物とは違う、死について考えるという霊的な存在です。
実際、世界保健機構は人間には霊的健康が必要であるとし、人を「霊的な存在」であると定義付けました。

そんな霊的存在である私達が死に直面した時、どのように死と向き合うのかを書いたお話があります。


ある三人の人が並んで十字架に架けられ処刑されたときのお話です。

23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。

23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


この真ん中に架けられた人が世界中で知られているイエス・キリストでした。

この箇所から人が死に直面するとき起こる三つのことが書かれています。

1つ目は23:40「お前は神を恐れないのか」と言う言葉のままです。
霊的な存在である人間は死に直面した時、必ず神を恐れます。

2つ目は23:41この罪人は「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と言った事から分かります。。
人は死に直面するときそれまで自分がしてきた事を思い返しその罪深さを知る事になります。
それまでどれだけ人の目に見えては正しく生きてきても、神様の前に隠れた思いや行いの全てが明るみになり、神様による裁きを受ける事を人は霊的存在として感じるようになります。

そして最後3つ目は23:41後半「だがこの方は、悪い事は何もしなかったのだ」という言葉に表されています。
人は死に直面したとき自分をお造りになった神の存在を感じるようになります。
聖書を読んだことのある私達はイエス・キリストが無罪であるにも関わらず十字架に架かったことを知っています。
しかしこの罪人はここで初めてイエス・キリストを知った人でした。

彼が本来知識的にイエス・キリストが無罪であった事は知る由はありませんでした。

にも関わらず彼は何故この様に言えたのか。

それは自分と同じ十字架に架かり、罵倒される中で極限の苦痛を体感し、同じように絶望感いっぱいになっているはずのイエス・キリストが自分のとても理解しきれない行動を取っていたからです。
イエス・キリストは自分を罵倒する者の為に祈っていました。

彼はこれを見て、同じ立場で同じ絶望感を持っていたからこそ、徐々にしかし、はっきりと、隣に十字架に架けられている人は人の姿はしているが同じ人ではない、と確信をしました。

「彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているか分からないのです。」
イエス・キリストは全人類の罪を、そこで罵倒している民衆の罪を、身代わりとなって負う事で、罵倒している者を含めた全ての者の罪を帳消しにして下さいました。
この罪人はそれに気付いたのです。
そして彼はこの時神の存在をイエス・キリストに感じました。

人は死に直面した時、神を感じるようになります。


以上三つが私達人が死に直面した時、私達の心に起こる事です。


この話でこの罪人が恵まれていたのは、彼は神を感じた時、イエス・キリストが自分の為に遣わされた救い主であると気付き、信じた事です。

結果彼は、天国行きの切符とその切符を手にした確信を得ました。


彼の人生最悪だった「きょう」は人生最高の「きょう」になりました。


こんな質問を聞いた事があります。
「今日もしあなたが死んだなら、天国に行く確信がありますか?」

今日のお話の罪人とは違い、私達の死は、時間的に言えばまだまだ先かもしれません。
しかし今回の災害は私達に死が私達が思っている以上に身近なものであることを教えてくれました。

神様は今日あなたに言われます。
「神は実にその一人子(イエス・キリスト)をお与えになる程に世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じるものが一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ為である」

皆さんはいつかは必ず私達に平等に訪れる死に対して準備が出来ているでしょうか。
もし今日、あなたがイエス・キリストを自分の罪の身代わりとなって死んでくださり、三日後に甦った神の子、救い主であると信じるならあなたは救われて、あなたの死に直面する日は、天国行きの最高の「きょう」に変わります。

どうぞ今、私達の人生でこれ以上ないこの恵み「永遠のいのち」をお受取下さい。

ちなみに次の投稿では、この罪人に向けられたイエス・キリストの具体的な愛について書かせて頂きます。
最後まで読んでいただき有難う御座いました。  

Posted by 於義丸 at 16:51Comments(1)TrackBack(0)

一学期も終わり

2009年06月18日



大分期間が開いてしまいました。

またもオギマルの写真を掲載いたします。

かわいいと思うのは飼い主だけだったりするんでしょうか。

と言いつつやはり載せます(^^;


生駒聖書学院に来て早くも一学が終わろうとしています。

何だか嵐のように過ぎ去った3か月でした。

しかし神様の愛の中に生きる一日一日は本当に

満たされた時間となりました。

聖書には「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日に勝ります」

というものがあります。クリスチャンの特権、それはどんな状況の

中に生きていても神様の愛を信頼し、全てが益になる事を確信

して過ごせることです。

このブログを見て下さった方の為にお祈りいたします。

心の底から平安な、千日に勝る一日、どおか手に入れて下さい。

  

Posted by 於義丸 at 17:31Comments(0)TrackBack(0)

初めまして

2009年06月11日

初めてブログというものに手を出しました。

自己紹介をします。

於義丸です。

読み方はオギマルと読みます。

名古屋の実家で飼っているペットからとりました。

今、牧師になる為、生駒聖書学院という神学校
 
で学んでいますicon16
初めての投稿は我が愛猫オギマルの写真を投稿して

始めたいと思います。

これからよろしくお願いしますface02

      
            





  

Posted by 於義丸 at 19:22Comments(2)TrackBack(0)